オセオラで数年活動した後、アルバートはインディアナ州ゲイリーに拠点を移し、ジミー・リード、ジョン・ブリムらと活動するようになった。リードとブリムがギタリストであったため、アルバートはこのときはドラムスを叩いていた。この頃のリードのレコードでも彼はドラマーとして参加している。彼がアルバート・キングという芸名を名乗るようになったのはこの頃である。'Three o' Clock Blues'をヒットさせたB.B.キングの成功にあやかってのことであった。
自己名義の初レコーディングは、1953年11月、パロット・レーベルでのセッションだった。ゲイリーに移住して間もなく、アルバートはウィリー・ディクソンと出会い、彼の口利きによって同レーベルでのレコーディングの機会を得たのだった。しかし、ここでは1回のセッションで5曲をレコーディングだけに終わった。(うち3曲がチェスのアルバム「Door To Door」収録)まだ、このレコーディングには後にみせる強烈な個性は殆ど窺い知ることができない。当時リリースされたのは、シングル'Be on Your Merry Way' / 'Bad Luck Blues' の1枚のみ。翌年にはオセオラに戻り、再びイン・ザ・グルーヴ・ボーイズでの活動を再開した。
オセオラでの2年間の活動の後、アルバートが向かったのはセントルイス。彼のトレードマークとなるフライングVギター、ルーシーをプレイするようになったのはセントルイス時代だった。この地で活躍して人気を獲得した彼は1959年、地元のボビン・レーベルと契約。ここでの彼のサウンドはジャンプ・ブルースっぽいが、ギターもヴォーカルも彼らしい個性が花開いてきている。3年間で同レーベルからが8枚のシングルをリリース。中でも1961年の'Don't Throw Your Love on Me So Strong'は、R&Bチャート14位という大ヒットを記録した。
1963年にはキング、1964年にはカントリー(Coun-tree)へレコーディングを残しているが、いずれも単発的なもの。そして1966年、かの有名なスタックス・レコードと契約し、アルバートの黄金期が訪れる。スタックスではブッカー・T&ザ・MG'sがバックを付け、ファンキーでソウルフルな新たな境地と言うべきサウンドを切り開いた。初期からいきなり'Crosscut Saw' (1967)、'Born Under A Bad Sign' (同)(クリームのカヴァーでも有名)などが生まれ、複数の曲がヒットチャートに登場した。これらの曲を収録したスタックス1枚目のアルバム「Born Under A Bad Sign」を1968年にリリース。スタックスでの成功からアルバートはフィルモア・ウェストにも出演するようになった。1968年夏のフィルモアでの演奏はライブ盤「Live Wire/Blues Power」としてリリースされた。
1970年代に入っても、アルバートは引き続き快調なペースで活動を続ける。1971年、アルバム「Lovejoy」をリリース。同作ではローリング・ストーンズの'Honky Tonk Women'を完全に自分の音に料理して見せるなど、より幅広い音楽性をみせるようになっていた。ギター・プレイのフレーズ数は決して多くない彼だが、意外にも新しいサウンドを消化する力には長けていた。1972年に、アルバム「I'll Play the Blues for You」をリリース、タイトル曲は彼の代表曲のひとつとなった。同年8月20日、ワッツ暴動の7周年を記念してロサンゼルス・メモリアル・コロシアムで行われたコンサート「ワッツタックス」に出演。その様子はメル・スチュワート監督の手により、翌1973年、ドキュメンタリー映画となった。